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C4Pの数理モデルの感想

有村氏のC4P論を日々、楽しく読んでいる。先日数理モデルの話があがっていたので、なんとなく自分が思ったことを書く。

感想としては、内積によって n\mathbb{R}^nはその上の(線形な)関数の空間と自然に同一視されるが それによって制限が強くなり難しくなっているように思うので、一度構造を忘れてしまうのが良いのでは?と思った。 以下、自分のイメージを書いてみる。

以下、数学の記号を使った話が続くが、全くもって厳密ではなく、雰囲気で書かれているということを断っておく。

ひとまず創作物の空間をXXと書くことにする。 創作物xXx\in Xのクオリティq(x)q(x)とはなんだろうか? C4P論においては「なんらかの指標を持ってして、ある程度は客観的に比較ができる」ということなので、 一旦q(x)[0,)q(x)\in [0,\infty)としてしまう。 指標とか評価とかはいろいろある(e.g. 売り上げ、再生数、etc)し、恣意的にもなり得ると思われる。 ひとまず、いろんなqqがあると思うのがよさそうである。 qqというのはつまりXX上の非負値関数なのでqqの空間はすごく大きそうである。 ジャンルとか市場とかの話をしたい場合はXXの構造や評価関数の空間について考えるとよいのかもしれないが、難しそうなのでいったん考えないことにする。

次にパーソナリティについて考える。C4P論においては、創作物というのは「内的なパーソナリティが外部に取り出されたアウトプット」として捉えられる(#1)。 ある個人のパーソナリティ(それが何かについては別途考える)の空間をPPとして、創作物xxによって取り出されたパーソナリティをPxPP_x \subset Pと書くことにする。 自分や他人の作った創作物xxたちを見比べて自分や他人のパーソナリティPxP_xたちの理解を深めよう、というのがC4Pでやりたいことだと認識している。

図にすると、こういうイメージである。

創作物を観点空間でパーソナリティとクオリティの積に分解するというよりは、 qqたちでは測れないパーソナリティがあるよね、というニュアンスなように思っている。

先日投稿された#32ではパーソナリティは「選択のパターンの総体」であり、パーソナリティが取り出された状態であるためには、3つの条件(自分で認識できること、他者との差異が見えること、指し示せること)があると述べられている。

私は趣味で写真を撮るので、写真xxによって取り出されたパーソナリティは何だろうかというのを考えてみる。

https://shivaduke28.tumblr.com/

自分で認識している好みとしては以下のようなものがある。

  • コントラストが強いものが好き
  • ローキーな写真が好き
  • 雲のない晴れた日の建物と空の境界が好き
  • 普段見ているものが高解像・強めのテクスチャで映るのが好き

特に晴れた日の建物が好きというのは、カメラを買ってから自覚的になったように思う。 他方で、もう少し他人の写真と見比べてみると発見があるのかもしれないなと書いていて思った。

せっかくなのでPPについてもなんとなく考えてみる。 C4Pでは「選択」という言葉がよくでてくる。個人的には有村氏のこのツイートが印象に残っている。

つまり、創作物を複数の選択たちの結果とみなす場合、選択の列(cn)n(c_n)_{n}みたいなものがあって、創作物はその像とするのがよさそうである。異なるプロセスで同じ内容が得られるようなケースもあるので、選択の列\mapsto創作物の対応は1:1ではなさそうだし、創作物から全ての選択の情報を復元するのは、作者本人にしかできないことなのではないだろうか。

こういうことを書いていると、“評価”というのものは図の右半分しかみていないような論調になってしまうが、 実際には自分たちは他人の創作物を鑑賞するときにその背後にあるコンテキストをセットにしていたり、あるいはどういう手法を使ったかなどの作者の選択についても知りたいと思うことが割とあるように思う。 メイキングや作者のインタビューなどもそうだし、美術館の展示で、作品のコンテキストの解説を読んだりするのもそう。こういうものはC4P/C4Q的な観点ではどうなるんだろうか?というのは個人的には気になるところではある。

最後に自分のスタンスについても少し書いてみる。 個人としては、以前ブログにも書いたが、内的な願いを蒸留しまくって作られたものが好きである。 「私はこういうものが好きなのでそれを作りました」というものが確かな強度で作られていると興奮する。 内外に関してはC4P的なのかもしれないが、強度を求めるという部分では違うようにも思う。 なんというか、マッチポンプ的だが願いを蒸留して山を険しくした上で、それを登ることに言い訳させないような環境を作って頑張って登る、みたいな行為に対して変な癖というか美徳があり、そういう環境で人が苦しんだ結果吐き出した何かを見るのが好きである。全部が全部そうあるべきとは思っていなくて、写真についてはパーソナリティのためにやれているように思うし、気楽に続けられているのはそういう理由がありそうにも思う。

自分が思う「強度」というものはクオリティの一つなのかと言われると、そうなような気もするし、そうでないような気もする。この辺はよくわかってないままである。

References