願いの蒸留
制作には「願い」が大事だと思っている。
まず前提として、ここでいう制作というのは厳密には趣味制作とか自主制作とかそういうもので、労働とは独立したものである。 私の場合は、例えば週末にコードを書いたりUnityを触ったりすることを指す。 次に、願いとは、例えば、こういうものを作りたいとかこういう問題を解きたいとか販売して100万稼ぎたいとか、そういう欲求が該当する。 Rectorの場合は、「ライブコーディングのコーディング部分をゲーム的UI/UXに置き換えられるか?」という問題を解く(≒理解する)ということが願いであった。
どういう願いを持つかは人それぞれの自由だと思うが、自分の中では自己完結的で他人に依存しないようにしたいと思っている。 他人は制御や予想が難しく、こちらがどう頑張ってもどうにもならないことがある。それゆえに他人を言い訳にできてしまうところがある。 逆に、完全に自己完結的な願いであれば、それが進まないのは基本的に100%自分の責任にできる。 自分の場合は願いの強度が低かったり願いに対して誠実になれていないと手が進まないことが多いように思う。 願いの強度を高めることを「願いを蒸留する」と呼んでいて、なんかやる気が出ないな〜というときは願いを蒸留する必要がある、みたいなことをつぶやいている。
願いが希薄になってきてる感じがある。蒸留しなければ。
— shivaduke (@shiva_duke28) 2025年4月3日
やれることややったら面白そうなことは本当にたくさんあるが、やるべきことは何かを考えないと自分はうまく動けなくなるということをここ1年くらいでようやく自覚してきており、やはり大切なのは願いの蒸留なのである
— shivaduke (@shiva_duke28) 2025年4月21日
蒸留する必要がある
— shivaduke (@shiva_duke28) 2025年6月12日
願いの蒸留が必要
— shivaduke (@shiva_duke28) 2025年7月3日
原理的には、願いの強度が十分に高ければそれを達成するために手段を選んだり労力を惜しんだりしている余裕はないはずで、 願いのために必要なのでやります、という力が働くはずだと思っている。 面倒くさかったり大変なときに、背中を押してくれる存在でもあるし、尻を叩いてくれる存在でもあるように思う。
話を変えると、少し前に、ブログに仕事について漠然と飽きてきているというようなことを書いた。 サラリーマンの仕事というのは究極のところ他人の願いの達成を代行しているわけで、どうして他人の願いに対して真面目になれているのかというと 賃金を伴う契約によって責任が発生しているからだと思っている。 こういうことを書くとミッションやビジョンへの共感、みたいな話をされそうだが、 そうではなくてミッションやビジョンに100%共感したとしても他人の願いであることに変わりなく、責任のスコープにも上限がある、という話である。 逆にいうと起業家というのは願いの強度が高くてすごいなと思う。自分の願いのために会社を作って人を雇っているわけで、これは本当にすごい。 一方で、事業として成立させるためには資本主義に適応する必要があり、金を稼ぐ必要がでてくる。 これによって願いの純度が下がることもあり、難しいなと思う。
それでも資本主義という前提は変わらないし、ものを作るのに金がかかるので金を稼ぐ必要があるわけで、資本主義のせいで成立しないものはそこそこあるのだ
— shivaduke (@shiva_duke28) 2025年5月28日
これは01の話ではなくて、どこまで資本主義に合わせてどこまで金から独立した夢を見るかというグラデーションがあり、何を仕事にするかという話だと思っている。本音と建前みたいな話だけど、だからといって茶化すことはできなくて、それにちゃんと向き合うしかないんだなと思っています。
— shivaduke (@shiva_duke28) 2025年5月28日
制作の話に戻すと、他人の制作に対して何が良いとか悪いとか批評する気はないけれど、個人の趣味嗜好としては願いの輪郭や強度がしっかりしているものが好きなように思う。 願いの形によって個性がでるし、それに向き合う過程で苦労したり工夫したりしたところが出力から伝わってくるのが好きだ。 少し前にツイッターでクオリティと本質みたいな話を見かけて少し考えていたが、自分の制作においては本質は願いがどのくらい蒸留されているかによって決まるのかなと思ったりした。
6月から職場が変わり2ヶ月が経過して、ようやく仕事にも慣れてきた。 そろそろまた願いを蒸留してなんか作ったりしたいなと思うが、どうにも夏バテ気味でしばらくはダメかもしれない。